人の一生とは。

私のような凡人は、この一生で何ができるのか、考えてしまうときがあります。

不安や劣等感など、様々なマイナスな要素を、ひっくり返すような素晴らしい体験が待っていると信じています。そこに希望を感じていなければ、やっていられないのが、この世の中だと思っています。

一生の中でなにが待っているのか、

そして、自分の命が尽きる時に、これまでの行いを満足をして眠りにつきたいと強く願うばかりです。

 

私は、かつて憧れていた「表現者」という存在に、映像クリエイターとして近づくことができました。表現者というものの定義は感情を伝えるなにかを生み出すことのできる者だと思っています。

映像クリエイターという仕事は、はたして表現者なのだろうか、という疑問を最近は抱くようになりました。大半の商用映像というのものは、多くのクリエイターの力で一つの作品を作っています。この制作に関わる人達を束ねるのが、監督やプロデューサーという役職についている人達です。いくら創造主という名前の仕事でも、やっていることは、少し勉強すれば誰にでもできるようなことであり、自らの思想、伝えたい意思などを作品に入れるようなことはできません。

表現者とは、一般の人々に比べてよく聞こえるが、自らの人生を全うできず、空想の中でしか、自由に生きることのできない者と言えます。

表現者は他者の人生をドキュメンタリーとして撮ったり、空想の世界をメディア化していくことにあります。これらの行為は、自らが示すものではなく、他者の行いをメディアに変換しているだけに過ぎないのです。バスケで熱い試合をしているのは題材で我々は映像を作っている。消防士が人を救っているのを、題材に、映像を作っている。感動的なシーンをつくるのは、いつも現実であり、我々の行っている制作は、題材にあがることのない、言わば裏方なのです。

 

日常の素晴らしさを感じることのできない私は、なにかを残せなければ、ただ坂道を荷物を背負って歩いただけと感じてしまうのです。

私は亀ではなく、人間なのです。

生きているのなら、なにかを残さなくては。繁殖を目的とした生命活動でないということを体現できれば良いと思います。