嫌いなこと <嘘をつく人>

嫌いなこと。

ある物事に対して、人は好きと思ったり、嫌いと思ったり、何の感情も湧かないことがあったりする。

特に嫌いと思うこと、負の感情とはなんだろう。

 

自分の嫌いなもとは何かを一度整理したいと思う。

嘘となにか?

嘘の何が悪いのか?

最終的には、嘘つきから脱却するには?

整理と言いつつも、ほとんど愚痴になってしまうことを初めに謝罪したい。

 

まずは、嘘をつくひと。

人間、嘘の一つや、二つは必ずつくものだ。僕も嘘で塗り固められた人生を歩んでいると言っても過言ではない。人はなぜ嘘をつくのか?本当の事象を告げてしまうと他人から非難されてしまう為、それを避けようとするのが嘘の王道だ。ほかには、誰かを守るためということもあるが、誰かを守るというのは対象の人の悲しい顔を見ることによって自分の気持ちが低下するのを防いでいるだけという捉え方もできる。人はあくまで自分の感情をコントロールするためでしか行動できないのだ。そして、最後に他人からの評価を上げたいこと。正直、例をあげるときりがない。

僕が最も苦手とする嘘は、自分を大きく見せる嘘だ。昨今のSNSブームに便乗して、自分を大きく見せるコンテストがSNS上では四六時中開催されている。たいして良い料理でもないのに美味しそうに見せ、その横に、コンプレックスだらけの自分の顔を盛大に化粧をして、さらにその上に加工アプリを重ねて載せる。文章も、これから毎日のジムトレーニングだの、健康意識だの、単純な嘘から高度な嘘まで、嘘のオンパレード。そんな嘘だらけで悲しくはならないのか?と思うが、「いいね!」をされることよって一時、世界から承認され、その満足感で命を繋いでいるのだと思う。

SNSを否定しているわけじゃない。本来、面と向かって自分の気持ちを言うよりかは匿名性があり、本当の心や、素直な気持ちを書けるいい場所であったはずのSNSでさえ、アカウントの個が強くなり、それは一つの顔となってしまった。もう一つの顔は、本来の面白みのない、お洒落ではない自分を否定する存在であり、その二つを交換できるのであれば、SNS上の自分と交換したいと思っていることだろう。やがてその境界線は曖昧となり、自分の本当の気持ちがわからなくなってしまうのがSNS依存症だ。SNS依存症は、その境界線が曖昧なことから、徐々に現実で築いてきた人間関係が希薄となり、理想の自分を評価してくれる人達、つまりはSNSの中で知り合う人のほうが都合が良い存在となり、実際会って食事したり、遊んだりするらしい。ネットで知り合って遊ぶことは否定しないが、遊んでいるときの自分は本当の自分なのか?偽りの顔同士で作られたコミュニティーはあくまで、仮のもので寂しい自分を慰めあうだけのグループに過ぎない。現実で繋がっていない分、人との縁を切ることも容易く、何か気に入らないことがあれば、気軽にそのコミュニティーを抜け出し、新しい自分の顔を作り、何食わぬ顔でまた新しいコミュニティーを形成していく。これらのことから懸念されるのは、他人とまともなコミュニケーションがとれなくなってしまうことだ。都合がいい人だけと付き合い、上手くいかなければ、関係を切る。根性論になってしまうが、逃げてばかりでは、ここぞというときに何も努力できなくなってしまう。それはきっと大きなしっぺ返しをくらってしまうことだろう。頭に浮かんだことをひたすら書いているだけなので、話が大きくそれてしまったが、この話を大枠で捉えれば、戯言は戯言であり、何の意味もない。ということだ。僕が他人と無駄話をするのが嫌いなので、嘘つきと話していても、この人は嘘をつく人なんだなぁ、という事しかわからないのである。世の中には上手に嘘をつけれる人はあまりいない。架空の設定上のキャラクターはどこかで話のつじつまが合わなくなり、破綻してしまうものだ。相手が相当の馬鹿でもない限り、すぐにバレてしまうだろう。僕は相手に嘘を付いていることを指摘できない。なので、嘘の話を聞いていて、この人はそこまでして自分を大きく見せたいのか、どうして自分の行為や性格がそこまで嫌いなのかと、哀れな気持ちや、本気で向き合ってくれない悲しみ、それらに対する怒りで複雑な気持ちになってしまう。嫌いだ。嘘つきは嫌いだ。

 私は今まで、仕事で多くの嘘をついてきた。まずは社会に馴染むために、不適合な自分を隠して過ごしてる。その上、ろくでもない商品を良いものとアピールして売る。嘘だ。そして利益を得る。これも嘘だ。利益、マージンというのは10円のものを100円にして売ることで発生するものだ。これは等価交換では決してなく、ここに90円の上乗せを隠して売っている。それからは、上乗せの分け前を争ったり、立場の弱いものは嘘によって抜かれた、わずかな価値を貧しくみんなで分けている。嘘は嫌いだ。

しかし、これだけ嫌いという嘘が必要なことは、もう良い歳なので分かってはいる。嘘をつく相手にたいして、嘘をついていると理解して、それに対してツッコみたい気持ちに嘘をつき、他人と摩擦をなくし、円滑にコミュニケーションを図る。結局、水清きところに魚は住めないのである。今までも、そしてこれからもきっとそうやって生きていくのだろうと思う。今更そのことを掘り返して嫌いだとか、本気で話せ、だとか言っても仕方のないことだというのは理解しているつもりだ。だけれども、徐々にコミュニケーションのレベルが下がり、上辺だけで何の議論もできないことや、自分に対しての努力にさえ、SNSで努力アピールをすることで努力したと錯覚して足を止めてしまう人があまりに多いため、嘘に対して異常に嫌悪してしまう。

 

ならば、嘘とどのように付き合っていけばよいのか、考えてみよう。

まずは嘘をつきたい気持ちに対して、それを抑止できることはないのだろうか?

 

1 に嘘をつかなければならないようなことをしないこと。

言葉で言うと善行だけを積めという話に聴こえてしまうがそうではない。まずは嘘は、嘘をつく本人にとって良くなことと認識することからだ。嘘は良くないなんて当たりまえなことを言うなと思われてしまうが冷静に聞いて欲しい。嘘をついてその場しのぎをして心を落ち着かせているのは自分だけで、他人には本当のことは見抜かれていて、ただ醜く映っているだけだからだ。稀に上手に嘘をつけていることもあるかもしれないが、いつか痛い目をみるのは明白なことである。そんな哀れな目で見られるよりも、真っ当に生きることを選択したほうが賢明だろう。

 

2 嘘をつく前に、紳士に謝ってみよう。

 

人間は必ず間違いを犯す。しかし、紳士に謝罪をすればたいていは許してもらえるはずだ。昔、ちびまる子ちゃんでこのような話があった。ある日、まる子はお姉ちゃんの大切にしていた裁縫セットを壊してしまう。お姉ちゃんに怒られることを恐れたまる子は、あの手この手で裁縫セットが壊れたことを気づかれないように様々な策を練る。しかし、裁縫セットを壊したという事実を頭から離れず、まる子はある心配事に気づく。それは寝言で壊したことを言ってしまうのではないか?ということ。いつも隣で寝ているお姉ちゃんに寝言からバレてしまうのではないか、そんな不安でついに眠れなくなってしまうまる子は、怒られる覚悟をきめて、事の顛末を正直に話した。すると反応は意外にも優しく、まる子は驚いたのち、姉のことが好きになるのであった。話のオチは本当に秘密にしたいことは寝言に出ないということを知り、じゃあ正直に言わなくて良かったじゃん!と思うまる子の人間らしさで笑うところだったが、話の本質は、嘘の罪悪感で苦しむより、正直に話した方が良いということだと思う。とてもいい話だと思った。

 

3 他人を大切に扱うこと