人の一生とは。

私のような凡人は、この一生で何ができるのか、考えてしまうときがあります。

不安や劣等感など、様々なマイナスな要素を、ひっくり返すような素晴らしい体験が待っていると信じています。そこに希望を感じていなければ、やっていられないのが、この世の中だと思っています。

一生の中でなにが待っているのか、

そして、自分の命が尽きる時に、これまでの行いを満足をして眠りにつきたいと強く願うばかりです。

 

私は、かつて憧れていた「表現者」という存在に、映像クリエイターとして近づくことができました。表現者というものの定義は感情を伝えるなにかを生み出すことのできる者だと思っています。

映像クリエイターという仕事は、はたして表現者なのだろうか、という疑問を最近は抱くようになりました。大半の商用映像というのものは、多くのクリエイターの力で一つの作品を作っています。この制作に関わる人達を束ねるのが、監督やプロデューサーという役職についている人達です。いくら創造主という名前の仕事でも、やっていることは、少し勉強すれば誰にでもできるようなことであり、自らの思想、伝えたい意思などを作品に入れるようなことはできません。

表現者とは、一般の人々に比べてよく聞こえるが、自らの人生を全うできず、空想の中でしか、自由に生きることのできない者と言えます。

表現者は他者の人生をドキュメンタリーとして撮ったり、空想の世界をメディア化していくことにあります。これらの行為は、自らが示すものではなく、他者の行いをメディアに変換しているだけに過ぎないのです。バスケで熱い試合をしているのは題材で我々は映像を作っている。消防士が人を救っているのを、題材に、映像を作っている。感動的なシーンをつくるのは、いつも現実であり、我々の行っている制作は、題材にあがることのない、言わば裏方なのです。

 

日常の素晴らしさを感じることのできない私は、なにかを残せなければ、ただ坂道を荷物を背負って歩いただけと感じてしまうのです。

私は亀ではなく、人間なのです。

生きているのなら、なにかを残さなくては。繁殖を目的とした生命活動でないということを体現できれば良いと思います。

生きるとは。

センシティブな作品が世間から評価を受けているのは、視聴者の多くは真面目に、足並み揃えて生きている日常から少し離脱したいからなのではないでしょうか。
感傷的な言葉や映像、音楽を創るアーティストの優れた感性を、自分も理解できることを、他人にアピールをしたい感情が働いているのだと思います。本当は僕も傷ついているんだ、耐えがたい日常を生きているんだと、主張するように。そんな湿っぽい感情をアーティストの描く世界に託しているように感じます。

 

今回は、生きる。というテーマのもと、少しだけお話したいと思います。マイナスなことが多い世の中で、なぜ人々は生きていけるのか、疑問に思ったことがきっかけです。

私は少しだけ、社会人を経験しました。とある製造業、多少の技術や、知識を必要とするも、誰にでもできるような仕事でした。毎日が同じことの繰り返しで、楽しいと感じることは一切なく、積まれた仕事、ノルマをこなし、生きていくためと、余分なお金をもらい、家に帰っては明日の為に寝る。そんな日々です。残業は多くないけれど、土曜日も仕事の週が多く、日曜は疲れを癒すために寝て、洗濯物を回したらそれで終わります。体力的なストレス、人間関係のストレス、閉塞感、様々な重圧がかかり、日曜日の夜は、どこか遠くへ行けたらと、始まる一週間の足音に恐怖しながら眠るのです。

こんな重たい日常を過ごしていたのは、僕の運が悪かったわけではないと思います。仕事も給料も、世間的に言えば、それほど悪くはないはずです。世間の人々はこんな生活を強いられていて、それでも生きることを諦めずに、毎日生きているのです。僕の忍耐力が低すぎるのか、世間の忍耐力が高すぎるのかは分かりませんが、僕は1年も経たずに職場から逃げてしまいました。

 

自給自足ができない僕たちにとって、働かなければ生きていけないのです。苦しい日々を生きるのか、それとも解放されることを望むのか。生きると決めた人は、どうして生きているのか。生きなければいけない理由と、死ねない理由。どうして生きているの?と聞かれて本心から答えられる人はどのくらいいるのか。とても気になります。教えてください。

 

ここから先は推測の話とよく聞く話です。

 

死ねない理由

・自殺すると家族に迷惑がかかるから。
・家族や大切な人が悲しむから。
奨学金、ローン、人によっては借金など、借りたものを完済していいないから。

・死後、自分が弱い人間と思われたくないから。

・子供や介護など、自分の存在なしには生きていけない人がいるから。

 

生きている理由

・希望を感じているから。

・マイナス面よりプラスのほうが大きいから。

・みんなが生きている。少数派になりたくないから。

 

 

こんなものでしょうか、想像力が乏しくていやになります。

明るいものだけ見ていたいです。暗いもの、鬱みたいなものが、そっちのほうが感性豊かで高貴な人間、かっこいい、みたいな風潮を感じたので、なんかいやになりました。

おしまいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自由とはなんですか?

自由が好き。おそらくゲシュタルト崩壊が起きるほど自由という文字を書いてきた。

昔にカウンセラーに、「あなたの望むものはなんですか?」と聞かれた際

「究極の自由です」と生意気に答えたのを覚えてる。

究極の自由とはなにか?本当に自由がいいのか、考えてみたい。

 

自由(じゆう)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。

 

現代の日本人が受けている拘束、支配とはなにか。それは恐らく、学校、会社、家族という答えが多そうだなと客観的に思う。そして自分自身の本性を正しく理解できる人間はそういない。

まずは児童、生徒である小中学生は義務教育として学校に行かなくてはならないと一般的にはされている。朝起きるのがめんどうでも、学校で成績が悪く他人から馬鹿にされようとも、学校に毎日通わなければならない。中学を卒業すると高校生となり、義務教育からは逃れることができる。しかし、中学をでて15歳の少年を受け入れてくれる企業はごく一握り、しかもあまり褒められた仕事ではないことが多い。高校は行った方が良いと言うより、卒業しなくては生きにくい未来を作りやすくしてしまう原因になっているため、行かなくてはならないような場所である。そして次に、大学、もしくは専門学校へ進学するか、就職するかの選択を迫られる。

嫌いなこと <嘘をつく人>

嫌いなこと。

ある物事に対して、人は好きと思ったり、嫌いと思ったり、何の感情も湧かないことがあったりする。

特に嫌いと思うこと、負の感情とはなんだろう。

 

自分の嫌いなもとは何かを一度整理したいと思う。

嘘となにか?

嘘の何が悪いのか?

最終的には、嘘つきから脱却するには?

整理と言いつつも、ほとんど愚痴になってしまうことを初めに謝罪したい。

 

まずは、嘘をつくひと。

人間、嘘の一つや、二つは必ずつくものだ。僕も嘘で塗り固められた人生を歩んでいると言っても過言ではない。人はなぜ嘘をつくのか?本当の事象を告げてしまうと他人から非難されてしまう為、それを避けようとするのが嘘の王道だ。ほかには、誰かを守るためということもあるが、誰かを守るというのは対象の人の悲しい顔を見ることによって自分の気持ちが低下するのを防いでいるだけという捉え方もできる。人はあくまで自分の感情をコントロールするためでしか行動できないのだ。そして、最後に他人からの評価を上げたいこと。正直、例をあげるときりがない。

僕が最も苦手とする嘘は、自分を大きく見せる嘘だ。昨今のSNSブームに便乗して、自分を大きく見せるコンテストがSNS上では四六時中開催されている。たいして良い料理でもないのに美味しそうに見せ、その横に、コンプレックスだらけの自分の顔を盛大に化粧をして、さらにその上に加工アプリを重ねて載せる。文章も、これから毎日のジムトレーニングだの、健康意識だの、単純な嘘から高度な嘘まで、嘘のオンパレード。そんな嘘だらけで悲しくはならないのか?と思うが、「いいね!」をされることよって一時、世界から承認され、その満足感で命を繋いでいるのだと思う。

SNSを否定しているわけじゃない。本来、面と向かって自分の気持ちを言うよりかは匿名性があり、本当の心や、素直な気持ちを書けるいい場所であったはずのSNSでさえ、アカウントの個が強くなり、それは一つの顔となってしまった。もう一つの顔は、本来の面白みのない、お洒落ではない自分を否定する存在であり、その二つを交換できるのであれば、SNS上の自分と交換したいと思っていることだろう。やがてその境界線は曖昧となり、自分の本当の気持ちがわからなくなってしまうのがSNS依存症だ。SNS依存症は、その境界線が曖昧なことから、徐々に現実で築いてきた人間関係が希薄となり、理想の自分を評価してくれる人達、つまりはSNSの中で知り合う人のほうが都合が良い存在となり、実際会って食事したり、遊んだりするらしい。ネットで知り合って遊ぶことは否定しないが、遊んでいるときの自分は本当の自分なのか?偽りの顔同士で作られたコミュニティーはあくまで、仮のもので寂しい自分を慰めあうだけのグループに過ぎない。現実で繋がっていない分、人との縁を切ることも容易く、何か気に入らないことがあれば、気軽にそのコミュニティーを抜け出し、新しい自分の顔を作り、何食わぬ顔でまた新しいコミュニティーを形成していく。これらのことから懸念されるのは、他人とまともなコミュニケーションがとれなくなってしまうことだ。都合がいい人だけと付き合い、上手くいかなければ、関係を切る。根性論になってしまうが、逃げてばかりでは、ここぞというときに何も努力できなくなってしまう。それはきっと大きなしっぺ返しをくらってしまうことだろう。頭に浮かんだことをひたすら書いているだけなので、話が大きくそれてしまったが、この話を大枠で捉えれば、戯言は戯言であり、何の意味もない。ということだ。僕が他人と無駄話をするのが嫌いなので、嘘つきと話していても、この人は嘘をつく人なんだなぁ、という事しかわからないのである。世の中には上手に嘘をつけれる人はあまりいない。架空の設定上のキャラクターはどこかで話のつじつまが合わなくなり、破綻してしまうものだ。相手が相当の馬鹿でもない限り、すぐにバレてしまうだろう。僕は相手に嘘を付いていることを指摘できない。なので、嘘の話を聞いていて、この人はそこまでして自分を大きく見せたいのか、どうして自分の行為や性格がそこまで嫌いなのかと、哀れな気持ちや、本気で向き合ってくれない悲しみ、それらに対する怒りで複雑な気持ちになってしまう。嫌いだ。嘘つきは嫌いだ。

 私は今まで、仕事で多くの嘘をついてきた。まずは社会に馴染むために、不適合な自分を隠して過ごしてる。その上、ろくでもない商品を良いものとアピールして売る。嘘だ。そして利益を得る。これも嘘だ。利益、マージンというのは10円のものを100円にして売ることで発生するものだ。これは等価交換では決してなく、ここに90円の上乗せを隠して売っている。それからは、上乗せの分け前を争ったり、立場の弱いものは嘘によって抜かれた、わずかな価値を貧しくみんなで分けている。嘘は嫌いだ。

しかし、これだけ嫌いという嘘が必要なことは、もう良い歳なので分かってはいる。嘘をつく相手にたいして、嘘をついていると理解して、それに対してツッコみたい気持ちに嘘をつき、他人と摩擦をなくし、円滑にコミュニケーションを図る。結局、水清きところに魚は住めないのである。今までも、そしてこれからもきっとそうやって生きていくのだろうと思う。今更そのことを掘り返して嫌いだとか、本気で話せ、だとか言っても仕方のないことだというのは理解しているつもりだ。だけれども、徐々にコミュニケーションのレベルが下がり、上辺だけで何の議論もできないことや、自分に対しての努力にさえ、SNSで努力アピールをすることで努力したと錯覚して足を止めてしまう人があまりに多いため、嘘に対して異常に嫌悪してしまう。

 

ならば、嘘とどのように付き合っていけばよいのか、考えてみよう。

まずは嘘をつきたい気持ちに対して、それを抑止できることはないのだろうか?

 

1 に嘘をつかなければならないようなことをしないこと。

言葉で言うと善行だけを積めという話に聴こえてしまうがそうではない。まずは嘘は、嘘をつく本人にとって良くなことと認識することからだ。嘘は良くないなんて当たりまえなことを言うなと思われてしまうが冷静に聞いて欲しい。嘘をついてその場しのぎをして心を落ち着かせているのは自分だけで、他人には本当のことは見抜かれていて、ただ醜く映っているだけだからだ。稀に上手に嘘をつけていることもあるかもしれないが、いつか痛い目をみるのは明白なことである。そんな哀れな目で見られるよりも、真っ当に生きることを選択したほうが賢明だろう。

 

2 嘘をつく前に、紳士に謝ってみよう。

 

人間は必ず間違いを犯す。しかし、紳士に謝罪をすればたいていは許してもらえるはずだ。昔、ちびまる子ちゃんでこのような話があった。ある日、まる子はお姉ちゃんの大切にしていた裁縫セットを壊してしまう。お姉ちゃんに怒られることを恐れたまる子は、あの手この手で裁縫セットが壊れたことを気づかれないように様々な策を練る。しかし、裁縫セットを壊したという事実を頭から離れず、まる子はある心配事に気づく。それは寝言で壊したことを言ってしまうのではないか?ということ。いつも隣で寝ているお姉ちゃんに寝言からバレてしまうのではないか、そんな不安でついに眠れなくなってしまうまる子は、怒られる覚悟をきめて、事の顛末を正直に話した。すると反応は意外にも優しく、まる子は驚いたのち、姉のことが好きになるのであった。話のオチは本当に秘密にしたいことは寝言に出ないということを知り、じゃあ正直に言わなくて良かったじゃん!と思うまる子の人間らしさで笑うところだったが、話の本質は、嘘の罪悪感で苦しむより、正直に話した方が良いということだと思う。とてもいい話だと思った。

 

3 他人を大切に扱うこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はけ口その枷、不眠と朝焼け。

過去の事を後悔しているようじゃダメだよって去年言われた。後悔しても意味がないのは解るけれど、どうしたって当て付けが欲しくなってしまうよ。

 

人格形成に悪影響しかなかった剣道

 

僕は25になる歳なのですが、周りの大卒の人は社会人3年目になります。四捨五入すれば30歳ということもあって、このままおじさんになってしまうのか?とか、悪くもないけど、良くもない生活に対して、これでよかったのだろうか?とか、そんなことを、多くの人が感じているみたいです。思い描いていた25歳と今の自分にはギャップがあって、それは責任を感じていないから。という結論に至りました。責任を感じるシーンは、おそらく住宅ローンを組んだときや、子供が産まれたときだと思うけど、たぶんそれでも大人になれない気がする。責任という言葉が適切かは分からないけれど、理想の自分になるという、誰もが目指す人生の目標に対しても、責任は存在すると思う。それは住宅ローンを組むこととは違って形式が定まっておらず、目標のレベルも、達成したという判断も自分がしなくてはいけない。目標を達成したと思い込んでも、やはり自分の気持ちに嘘はつけないものだから、僕は努力して何かを掴まない限り、大人にはなれないと思いました。
逃げているだけだけど、結婚や出産はあまりに非現実的だから、レッドブル飲んでもう少し勉強頑張ります。

 

なんか違和感…明日のこういう一日になるというイメージがわかないから不安で寝付けない。

 

カメラマンの人に、なんでも制約がない中でつくること、趣味嗜好を100%出して、作品をつくりたい気持ちは強いか?普段作るCMの仕事に不満を抱えたりすることはないか?と質問したら、その人は不満はあるけど、僕は表現したいことを持ち合わせていないと言った。カメラマンの人が本当に持ち合わせていないかどうかは、その人にしかわからない。好きにやってと言われた時に、ちゃんと表現したいことを出せるようにしたい。

 

半落ちを観て、いまひとつ感動できなかった。これは僕の経験不足、若さゆえだと思う。
映画って若い人が観てそうだし、そんな人達に作品賞として受けているのは、みんなそんなに達観しているものなのかと疑問を感じるが、きっと僕だけ劣等種なのだろう。

 

この、税込み98円のレトルト牛丼は牛の肉ではなく、社会から爪弾きにされた人間の肉で作られている。たぶん違うけど、そんな気がした。
同族を食べる僕もまた、そのうちレトルト牛丼になる。

 

休日を楽しみに待つような大人にはなりたくない。と文集に書いた中学生の僕に叱られた。
大人になって休日が楽しみになってしまい、何もなさないまま日々が過ぎていくことに焦りというより、不安が募っていった。父はずっと厳しかった。
しかし、僕が駄目になってしまった時、立派な人になれ、という重荷を解いた。「僕は家族に対して圧力をかけ過ぎたのかもしれない」と父は真剣な表情で呟いた。自分の信念を絶対に曲げない人が、後悔を見せたことに、驚き、のちに罪悪感が生まれた。僕は言葉にはしないけど、理解していた。圧力は僕のためにかけられていることに。
色々なことがあったけど、もう一度頑張ることにした。
直接、頑張れとは言わない父は、たまに手紙を書いてくれる。
僕にもう一度、重荷を背負わせてくれることが嬉しかった。期待してくれていることが嬉しかった。家族からの愛情をまっすぐに受け止められないのは、僕が期待に応えてあげられないからだ。愛情を受け取ってしまったら、裏切ることができなくなる。応えてあげられるだけの努力や責任をを負う覚悟がないのが問題だ。
もっと強くならなくてはならない。

 

何かを諦めた人生って、本当に生きていく価値のあるものなんだろうか?でも、人が生きている限りそれぞれのドラマがあるのも、たしかなこと。

 

見つけられなくて、何にも届かなくて、疲れて、信じれなくなって、何のために頑張っていたのかも忘れて、それでも虚無感だけは植えつけて去っていく。

みんな幸せになりたいだけなのに、どうして幸せになれないんだろう

 

僕は辞めたい気持ちで胸がいっぱいの中、辞めないですよ〜と苦笑いしながら言いました。

夜空があまりに綺麗で、白みがかる東の空に憎しみを覚える。
夜が好き。朝になると仕事に行かなくてはいけないからね。

 

飯だけは食えよ。お前の体は食ったものでしかできていないんだからな。別に何食ったっていい。帰りに弁当買っても、店で食べてもいい。独り者の男なんてみんなそんなものだ。
と、夢の中で言われた。
嬉しかった。

 

初めて会う人に、今日はいい天気ですね。と言ったら、「晴れて本当に良かったです。今日は小1の娘の運動会なので」と言われて、複雑な気持ちになった。仕事で会う人だから、その人はもちろん、娘の運動会に行ってあげられないわけで…

道端の雑草のように、誰にも見つけられず、ひっそりと息をしていたい気持ちになることもあれば、誰かと深く関わって、その人にとって大きな影響を与えたいという気持ちにもなる事もある。例えば、成人式の出欠を迷っている人がいるとして、説得して成人式に向かうように促す。その人にとっては成人式に行かなかった人生から、行った人生へと変わる。それが大きな違いかどうかわからないけど、関わってしまうことが大切だと思う。ひっそりと息をしていたいのと、誰かとの関わりによって自分を認識したいのは、行動としては正反対だけど、元をたどれば居場所を求めてるということに収束している。僕も居場所が欲しい。楽しく刺激的で、だけど落ち着いて眠れるような居場所が。
そんな理想郷のような、ひどい幸せを夢見る贅沢者の祝日の朝。

 

体調が不安定になると、いつも嫌な夢をみる。内容はだいたい決まっていて、愛さなきゃいけない人のことを殴る夢。
目覚めの気分は最悪で吐き気がする。外はまだ暗いから、夜の中を歩こうと思いつくけれど、そんな元気もないので、窓を開けてベランダの冷たいコンクリートに両足をつけた。

 

バイオリンをやっていてなにも良いことなかったと、仕事繋がりの人に話したら、真剣な顔で過去を後悔したりなにかの所為にしているようじゃダメなんだよ。後悔しない自分にならなきゃと言われた。いきなり真面目な話をするから驚いて、意味もよく分からなくてなにも返せなかった。たまに大人の人が、仕事とは〜とか、家庭とか生きることとか、経験から学んだ教訓や哲学を僕に話してくれるんだけど、いつもピンとこない。

 

物語で駆け落ちするとか、子供たちが逃避するとか、その手の話の終わりは、戻ってしっかりと話しをつけて円満となるハッピーエンドが多い。逃避願望が強いせいか、本当はどこまでも逃げてほしい。

 

 

友だちがオリンピックを観て、頑張ろうと思い、ハローワークに行ったので、オリンピックは素晴らしいと思いました。

 

生きる理由もないし、死ぬほどつらいということもない。生きてると感じるようなものが欲しい。

 

 

 

中1の頃に一番仲の良かった友達が死んだ。当時バリバリのビートルマニアだった僕は、ジョンの伝記にスチュアートが死んだとき「悲しい時は泣くんじゃなくて大笑いするのさ」と書いてあったのを思い出して一人、集会で笑った。そうしたら、みんなから軽蔑され、以来ぼっちに。灰色の学生時代を送る。

 

月に一度はプラネタリウムを観ないと心が濁る

アーティストになりたいって気持ち、きゃりーぱみゅぱみゅに託した。

六畳一間の部屋から自転車で通勤すべき人間なのに、いろいろと生活水準高くなりすぎて、後に引けない。ぜんぶ捨てたい。

 

いつも友達を一緒に入れてセルフィーする女子が、友達を入れなかった時、それは大抵、微妙な関係の異性。

 

原因は知らないけど、心を病んだ社員のこと、みんなで馬鹿にしてた。どんなコミュニティの中でも、誰かのことを蔑むようなことをして、自分たちの地位を安定させようとしてる。くだらないなぁ、

 

明日、朝起きたらドラゴンになってないかな。そしたら仕事休めるのに。

 

会社は利潤追求のためではなく、社会貢献をする資金のために利益を出しているっていう学者がいるらしいけど、話が前後してるだけで現象としては同じなんでしゅ。国が豊かになって、いろいろと便利なのは、利潤追求に必死になった結果とも言えるけど、自分の会社の利益、給料のために定年まで嘘つき続けるのはつらしゅぎ。ジュースの価値が10円なら10円で売らなきゃ嘘ですやん。仲介マージンがなきゃ人件費すら賄えないのはわかるけど、嘘ですやん。やっていて心が綺麗になる仕事はありませんか?

さっきまで見た夢の話で申し訳ないです。
アイドルの殺傷事件に偶然立ち会ってしまい、コンビニで買ったパンの袋にたくさん血がかかってしまった。それでもパンが汚れたわけじゃないから、上手に袋を破って食べていたら、こいつおかしい、あれ犯人??みたいな目で見られた。

 

世の中には明らかに常軌を逸する人がいる。理解したり仲良くしたりする必要はないけど、蔑んでいいわけじゃないよね。大人になると会社内外に立場があって長いものにまかれるようになってしまうから、偏見の同調が強くなってしまう。

お金なさ過ぎて、ろくにご飯も与えられずに、学校にも行けなくなった子がいる。家にあったクッキーに群がる蟻に話しかける事しかコミュニケーションができない為、精神の解離症状が起こしてしまい、今は元気でも、後遺症のようなものは消えない。 その子が今、幸せなのかどうかは分からない。当たり前のことだけど、親になるなら子供が不自由することのない環境を敷く事が必須。
当たり前のことができない人が多いけどね。両親の離婚する前後の事を思い出すと、恋愛に良いイメージを持てなくて、誰かと一緒になったりしたくないって言っていた人がいて、考え方は自由だけど、聴いていて虚しかった。人の生い立ちを聞いた中で、正真正銘悲劇のヒロイン文句なし1位の彼女は、今はとても元気に毎日を過ごしてるけど、恋愛に対する嫌悪感と性癖が歪んでしまったのが後遺症かな…

 

僕の名前も顔も忘れているのに、僕がまた遠くに行ってしまうことを哀しいと思ってくれている祖母。
寂しそうな表情で「遠くに行ったらあかんよ」なんて言うから困ってしまう。曖昧な記憶とは違う場所に、愛情をしまう引き出しがあるのだと思った。祖母とは3年に一度くらいの頻度でしか顔を合わすことがなかったから、そこまで深い愛情を受けてるとは思わなかった。だけど、本当に寂しそうな目をしていたから僕もいろいろ考えてしまう。

 

僕は結婚をしたり、父親になったりするタイプじゃないから家庭を持つことはないよと言うと、彼女は小さく笑いながら、私はそういう人と結婚してお父さんにするタイプだよと言った。

 

人の事を信じる、信用する、信頼できる、そういうものが試されるのは、きっと窮地の最中にしかないと思う。
試したり、試されたりすることがまず悲しいことなんだけどね。

夢のような時間を過ごすと本当に夢だったのではないかと、ついさっきの事を遠い日の記憶のように感じることがある。

 

 

帰り道の風に少し暖かいものがあって、許されたような気がした

 

良い味を知ってしまうともう戻れない、なんてことは良くあるけど、目の前により良いものがあれば、それを欲してしまうのが人間の性。
でも、たまに後悔する。こんな幸せ、知らなきゃ良かったと。

 

世の中に自分の名前を知っている人がいるということに嫌悪感がある。例えば、就活で提出した履歴書に目を通し、数分の面接をした採用担当者は、僕の名前と顔と学歴、電話番号、つまるところの個人情報を把握してる事になる。
けれど僕の本質的なものは何も知らない。僕も採用担当者の人の事を何ひとつ知らない。でもお互いの脳裏にはお互いの顔と名前が生きている。簡単に言うと僕の知らないところで、よく知らないおじさんに、ああだ、こうだと分析されたくない、という事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

大切なものは一つだけで良い

今日は11月11日。小学生だった頃の僕は、11時11分になる瞬間を目に収めるため、時計の針を固唾を呑んで見つめていた。当たり前だけど、何か特別な事が起こるわけもなく、針はすぐに12分を指した。

 
秋も徐々に深まってきました。僕は四季の中で秋が一番好きです。気候が良く、夏の暑さからも解放され、春のようなスギ花粉もない。布団の暖かさが心地良くなるのも秋の良いところです。
 
雑談が長くなってしまいました。さっそくですが、今回の本題に話を進めましょう。
皆さんは、生きていく上でテーマや目標のようなものはありますか? 学生の頃、または若い世代の人たちには見え難いものだと思います。しかし、道しるべなくして人は真っ直ぐ歩けるのでしょうか。流されるままに生きてみるというのも、それはそれで一つの生き方だと思いますが、なかなか上手くはいかないものです。今回で言うテーマ、目標というのは、達成する事に意味があるものではなく、その過程に意味があります。過程とは“生きていく”ことです。
 
なんのために生まれて、なにをして生きるのか。アンパンマンの作者、やなせたかし先生の言葉は、人のテーマを率直に問いかけているようです。若い人は就職などの転機を目の前にして、これからの人生設計についてを考えることがよくあると思います。思考が深みに落ちてしまうと、なぜ生きているのだろう?なんて考えてしまうこともあるでしょう。そもそも生きる事を楽しいと考える人は稀で、宗教や偉人の言葉を参考にしても、生きる事は苦であるとされていることの方が多いのです。そんな苦行を生れながらにして背負う僕たちは、なにを希望にして今日までを過ごし、明日からも生きていくのでしょうか?たまたま絶命する機会がなかったからでしょうか? 僕はたとえ無意識だとしても、なにかしらに希望を感じていたのだと考えています。
 
人は、なにかを精神的な支えにして生きています。それは家族の存在だったり、良い暮らしがしたいという気持ちだったり。神様への信仰というのも海外の方には多いようです。自分にとってかけがえのない人や、大切にしたい考え、アイデンティティー、失くしては立ち行かないもの。そういったものを一つ思い浮かべてみてください。思い浮かんだものを中心にして、これからの在り方を考えてみるのも良いと思います。二兎追うものは一兎も獲ずの言葉通り、一つだけを大切にしましょう。確かなものが一つあるだけで、健やかに生きていけるはずです。
 
なんだか、自己啓発本みたいな文章になってしまいましたね。
 
以上がタイトルの「大切なものは一つだけで良い」にまつわる話でした。
この話には、そう考えるに至った経緯があります。その話は次回に書きたいと思います。秋の夜長に眠れない方は、もう少しだけお付き合いください。
 
 

変化を愛する考え方

 

1年ぶりの更新です。ほぼブログの存在を忘れていました。

思い出した経緯は、僕の人生の中で大切な人のうち二人がはてなブログをやっているからです。今時はブログにも、数多くのサイトがあるのに驚きました。でも、どうしてこのブログなのでしょう? 僕はシンプルなデザインが好きだからです。他の二人も同じ理由だったら少し嬉しいなと思いました。

ブログの名前を変えました。前の名前は胡散臭い感じだったので、シンプルなものに。

 

このブログは、ふと考えたことをまとめるものです。今回はタイトルに設けた「変化を愛する考え方」についてお話しさせていただきます。いきなりですが、僕は言葉にあまり責任や、深い意味を感じてはいけないと考える時があります。言葉というものはあくまで人間が、その時の感情や環境に左右されて出た文句です。感情や環境は移ろうものであり、確かにその時感じていた偽りの無い言葉だとしても、それが一ヶ月、半年、一年と経過しても変化しないとは限りません。変化してしまうのは自然な事であり、仕方のない事なのです。

若者に流行っている言葉で“黒歴史”という言葉をご存知でしょうか?黒歴史を簡単に言うと、自らの恥ずかしい過去を指す言葉です。この言葉は基本的に現在と過去の自分を切り離したいという気持ちで使う事が多いと感じています。人間は基本的に自分の事が大切だけど、嫌いになってしまう生き物です。自分の事を一番知る本人は、結局、騙したり、誤魔化したりする事が出来ずにありのままの姿を見てしまうものですから、嫌いになってしまうのも仕方ありません。そんな自分を毎日見せられているのはとても辛いことです。だから人は変わろうとする。人は変化せずにはいられないのです。過去の嫌いな自分は黒歴史と託けて、切り離す事で自らを許しているのです。

話は逸れましたが僕が今言いたいのは「変化する」ということです。最近読んだ、原始仏教についての本の影響もあるのですが、すべてのことは変化していくのです。この場合、変化という言葉の中に、陳腐化、忘れていくということも含むものだと思ってください。

例えば今、あなたが失恋をして心に傷を負っているとします。しかし、今は辛くても来年には新しい恋人と仲良くしているかもしれないですよね。時間の経過や、生きていく中での新しい出会いは悩みごとを陳腐化させ忘れさせてくれるものです。もちろん、後遺症があったり、動物や人の死など、取り返しのつかないこともありますが、そのショックでさえ乗り越えられてしまうものなのです。

この世に絶対というものがあるとすれば、僕たちが過ごしている空間、それと、今も過ぎている時間です。僕は悩みごとに苦しむ人を、救ってあげられるような大した人間ではないのですが、悩みを和らげるコツとして、一つアドバイスを書いて終わりにしたいと思います。

自分の悩みと時間の流れを俯瞰してみて下さい。1年後、5年後、10年後には、なるようになっていると思えば、少し気持ちが和らぐのではないでしょうか? あまりお勧めできない考えなのですが、未来の自分に大きな期待をすることは、やめたほうが良いと思います。また、恥ずかしい過去や、消したい過去も今の自分を形成するものとして愛してあげてほしいです。

前回の記事を書いてから1年、いろいろあったような、なかったような…

僕も、少し諦めた姿勢で意識低い系ポジティブおじさん目指して精進していきたいと思います。

では。

 

ここだけの話、この文章は久々に見たブログタイトルの寒さに吐き出た言い訳です。